ふと思いついて「備忘録」
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幕末維新の群像

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二条城 二の丸御殿大広間


明治維新
江戸幕府とそれぞれの藩が治めていた政治体制を壊し、
新しい中央集権国家が様々な改革を進めたことを言う。
廃藩置県や、欧米を手本にした徴兵制度、殖産興業策が導入されたほか、
教育制度や税制も抜本的に変え、近代的な国家づくりが進んだ。

こうした改革は周辺国にも刺激を与えた。
例えば中国(当時は清国)では、日清戦争(中国名・甲午中日戦争)後、
康有為(カンユーウェイ)らが明治維新にならって
政府機構の改革や人材登用を進めた。
この改革は103日でつぶされたので「百日維新」と呼ばれている。

明治維新(英: Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは
明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。
江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、
それに伴う一連の改革を指す。
その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済
・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、
どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。

開始時期については諸説あるが、
狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。
しかし、一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還、
王政復古以降の改革を指すことが多い。
終了時期についても、廃藩置県の断行(明治4年、1872年)、
西南戦争の終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、
立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。
この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の
王政復古以後に成立した政権)を特に明治政府、新政府、維新政府などと
呼称することが多い。
「藩閥政府」と揶揄されることもあるが、
中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく、
一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。
当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して御一新と呼ばれていた。


幕末
1820年代徳川家斉の時代、明治維新から約40年前のこと。
外国船が日本の近くに現れ
、飢饉(農作物がとれず、食べ物がない状況)も発生し、
幕府の政治は行き詰り始めていました。
しかし幕府はこれらの難題を前に手を打つことができず、
ついには1837年に幕府の役人である大塩平八郎が一揆をおこします。
大塩に続き、一揆や学者の反幕府活動が増加。
しかもこのころには国学がはやり、「日本で一番偉いのは将軍と天皇のどっち?」
というような問題が起きていました。
それほど、江戸時代後期には幕府の威信が落ちていました。
老中水野忠邦は、幕府の威信を回復するために
日光への将軍のお参り(大規模行列だったから、将軍の力を見せられる)を
企画しましたが、お金がないのにお金を使うことをするため、
ますます赤字になりました。

そんな中、黒船が来航。
産業革命を終えた欧米では、
当時の日本では信じられないような技術と文明を持っており、
幕府には抵抗する力がありません。
黒船が来た時のある漁師の感想は「伊豆の大島が動いたぞー!」
それほど信じられない光景だったのです。
国力差を背景に、江戸幕府はで禁じられた開国を求めてくるアメリカ。
幕府は有効な手を打てず、
1年間回答を先延ばし、その間に情報を集め、策を練ります。
かしこれといった策がないまま、翌年には日米和親条約を締結しました。

さらに数年後、
こんどは欧米に都合のいい条約を結ぶように欧米は主張してきました。
しかし、
当時の天皇は外国人が嫌いだったため、なかなか交渉が進みません。
それも、
水戸黄門の子孫がワインを飲んでいる欧米人を「生娘の血をすすってやがる」
とかいったせいです。
ついに幕府の大老井伊直弼は、天皇の許可を得ずに、外国と条約を結びました。
日米通商修好条約です。
この天皇を軽んじた態度は、幕府に対する批判を強くします。

また、直弼は将軍継嗣問題や条約問題をはじめ、
自身の政策に反対する政治家や志士を厳しく罰しました。(安政の大獄)
上記の水戸黄門の子孫も、直弼によって引退。
それに怒った水戸藩士が、直弼を暗殺(桜田門外の変)します。
これによって、
幕府の最高権力者が殺されたことで、ますます幕府は権威を失いました。

そこで、落ちた権威を回復するために、
幕府は天皇の妹を将軍の嫁にしたいといいます。(公武合体)
天皇は「攘夷(外国を追い出そうという行動)をするなら」
という条件付きで、妹を出します。
そこで幕府は攘夷をする日を決めますが、
心の中ではみんな不可能だと思っていました。
しかし、長州だけはまじめに攘夷を行い、外国船を下関で砲撃。
この長州の行動に対し、危機感を持った薩摩と会津は、
協力して長州を御所(天皇の住い)から追放し、警備を薩摩と会津で
行うようにしてしまいました。(八一八の政変)

そして池田屋事件で長州の志士が殺されたこともあり、
長州は過激派によって京都に進軍。
自分たちの冤罪を主張しますが、御所を攻撃したことで、
逆に朝敵とされ、薩摩と会津に叩きのめされました。(禁門の変)

一方、薩摩は、幕府の政治にあまり参加できない不満や、
薩英戦争(イギリスと薩摩の戦い)によって攘夷ができないことを悟ってしまい、
幕府に対する失望を強めてしまいました。
そこを坂本龍馬を中心に志士たちが暗躍し、薩長同盟が組まれたのです。

長州は再び反幕府の姿勢を強め、
やがて幕府と戦争します。(四境戦争=第二次長州征伐)
幕府に味方する藩は少なく、ここで幕府は完敗し、ますます権威が落ちていきます。
そんな中、新しい日本で中心になることを考えた徳川慶喜が、
政権を天皇に返すことを決断してしまいました。(大政奉還)
ところが薩摩は幕府が強い影響力を持った日本を認めず、
あの手この手で幕府を挑発し、ついに戊辰戦争に至りました。

鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗北、
それどころか錦の御旗を前に多くの藩が幕府を裏切りました。
幕臣で幕府の最高責任者である勝海舟は、
戦えに勝てはしても欧米が日本を攻撃する可能性を考え、戦うことなく江戸城を
新政府に明け渡しました。
その後も新政府に対抗する勢力との戦いが翌年まで続きました。


そもそも幕末とは?
日本の政治は、もともと天皇様を中心とする朝廷が行っていました。
この朝廷から江戸時代に政治を任されていたのが、徳川幕府です。

幕末というのは、徳川幕府が日本を統治した時代の末期のことなのです。

それではこの頃にどんなことが起こったのでしょうか?

・黒船の来航
鎖国をしていた日本は、外国との付き合いをシャットアウトしていました。
しかしアメリカから軍艦と共にやってきたペリーは
「港を使わせなさい」と幕府に要求。
さもなくば武力行使!という態度をとります。
これが黒船来航です。
武力を恐れた幕府が港を開くと、
アメリカはさらに「日本側の条件悪いけど貿易もしよう」と持ちかけてきます。
反発も多い中、
幕府の重役だった井伊直弼はほぼ独断で貿易を受け入れました。
これが幕府への不満に繋がっていきます。

・安政の大獄と攘夷(じょうい)
強引な貿易で景気が悪くなると、
日本から外国人を追い出そうという攘夷の考えが広まりました。
それに焦った幕府は、攘夷派の活動家たちを厳しく処罰します。
これが、安政の大獄と呼ばれる事件です。
取り締まりのリーダーだった井伊直弼は、
強い反感を買って暗殺されてしまいます。
すると次に幕末の鍵を握ったのは長州と薩摩の2藩でした。

・薩長同盟の締結
長州藩は簡単に言うと「天皇様大好き、でも外国人は嫌い」という藩。
天皇様に政治をして欲しい、外国人は追っ払う!
これが長州藩の言い分であり、尊王攘夷という考え方です。
彼らは天皇様のいる京都で、攘夷活動を行います。
これが面白くない幕府は、
新選組などの部隊を作って尊王攘夷派を取り締まりました。
徐々に力を削がれた長州藩は、京都を追い出されます。
一方薩摩藩。
攘夷思想はありますが、
幕府と天皇様が協力して政治を行う公武合体が多数派です。
幕府への不満はありつつも、逆らいはしません。
長州藩への攻撃には薩摩藩も参加してたりするので、
当然2つの藩は仲が悪かったんですね。
犬猿の仲の薩長ですが、後に共通点が生まれました。
それぞれ外国の部隊と直接争ったのです。
結果的に完敗した両藩は、攘夷は無理だと悟ります。
攘夷ができないとなると、
外国に対抗するには日本も国や軍を強くしなければいけません。
そのためには、古い考えの幕府を倒して新しい政府を作るべきだ!
両藩がそう考えたところで坂本竜馬が登場。
坂本竜馬が仲介したことで、長州藩と薩摩藩は協力して幕府を倒そうと決めます。
こうして薩長同盟が締結されたのです。

・大政奉還
薩長同盟が結ばれると倒幕運動が激化しました。
しかし大きな戦が起これば国内が混乱してしまう。
幕府の将軍・徳川慶喜は混乱を避けるために政権を朝廷に返すと宣言しました。
これが大政奉還です。
この後、政権返上を認めない幕軍と薩長軍の間で戊辰戦争が起こります。
戊辰戦争に負けた徳川幕府は完全な終わりを迎え、時代は明治へと移りました。

黒船来航から
戊辰戦争(※)の終結までを、幕末と呼びます。

◎この4つは幕末の中でも代表的な出来事です
・黒船来航
・安政の大獄
・薩長同盟
・大政奉還



※戊辰の年におきた戦争ですから、戊辰戦争と呼びます。

戊辰は「ぼしん」または「つちのえたつ」と読みます。
これは「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の十二支をさしています。
これとは別に、
十干といって「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」という表し方があります。
私の父母のころまでは、通知表は「甲・乙・丙・丁」で表していました。
さて、この「十二支」と「十干」を組み合わせていくと何通りになりますか?
この中のひとつ、「戊」と「辰」の組み合わせの年が戊辰の年になるのです。
慶応四年は戊辰の年です。
慶応四年(後に明治元年と改元) 1月の鳥羽・伏見の戦いに始まり、
翌年(明治2年) 5月の箱館戦争終結
までをいうことが多いと思います。(複数の戦争の総称)


Wikipedia:ウィキペディア/朝日新聞/毎日新聞/WEB各記事等 参照
「大政奉還150周年記念プロジェクト」参照・抜粋


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